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ザグレブ〜トゥズラ 目次


目次 (1) ザグレブ Zagreb
ザグレブ〜ドブルリン Zagreb - Dobrljin
ドブルリン〜ドボイ dobrljin - Doboj
(2) ドボイ〜トゥズラ Doboj - Tuzla
トゥズラ Tuzla
ボスニア・ヘルツェゴヴィナと鉄道 Bosnia Herzegovina and Railway

ドボイ〜トゥズラ Doboj - Tuzla


 ウクリナの交換待ちで遅れたにもかかわらず、ドボイには定刻より2分早く到着した。ダイヤにはゆとりがあるようである。予想した通り、町外れにある古びた大きな駅である。乗ってきたサラエヴォ行きが本屋前の1番線に停まり、隣ホームの2番線にはドボイ始発のバニャ・ルカ行き普通列車が、3番線に私が乗り換えるトゥズラ行きの気動車が停車している。発車案内の表示もなければ言葉もわからないが、鉄道慣れしていると、時刻表を見てきただけで、こういった事なら自然とわかる。


 この、3本の古びた旅客列車が並んで停車している一時代前の鉄道風景は実に味わい深い。ゆっくり写真でも撮りたいところだが、今はそれどころではない。この先の切符を買わなければならないのだが、懸念した通り、駅構内にも駅前広場にも、両替所もなければ、銀行ATMといった近代的な設備も見当たらない。もちろん自動券売機などもない。有人切符売場が一つ開いていたが、ボスニア・マルクの現金しか使えない。ユーロも駄目だし、クレジットカードも使えない。10ユーロ札を見せて、何とか売ってもらえないか、身振り手振りで窓口のおばさん駅員に聞いてみるが、駄目そうである。しかも英語もあまり通じないという絶望的な状況で、限られた乗り継ぎ時間内にトゥズラまでの切符を買うのは無理かと思われた。

 だだっ広く閑散とした駅前広場  左手のキヨスクが救世主だった

 駅舎を出たところに小さなキヨスクがあり、若い男性が一人、店番をしていた。幸い彼は英語がある程度わかる。10ユーロ札を出して、両替してもらえないかと聞いてみると、それは駄目だが、何かを買うならばお釣りをボスニア・マルクでくれるそうだ。この方法は以前、ハンガリーの国境駅でも使ったことがある。有難くビスケットを買い、10ユーロを出す。レートがどうなのか、わからないが、悪くても何でもボスニアの通貨でお釣りをくれるだけで有難い。大半を失ったところで10ユーロである。列車に乗れなくなるよりマシだ。だが彼は見るからに実直かつ几帳面そうであった。

 もらったお釣りを持って再び切符売場に行くと、さきほどの駅員が手書きで切符を作ってくれた。薄紙ではあるが、色々と書く欄がある凝った切符である。値段の見当もつかなかったが、ビスケットのお釣りで十分足りて、まだ小銭が結構残った。ドボイからトゥズラは60キロで、運賃は7.20マルク。日本円で約470円、ユーロだと約3.78ユーロに相当する。この距離は日本のJR本州三社なら950円だから、やはり安いが、ザグレブで買った長距離切符に比べれば案外高い。実際、後で計算してみると、キロ当たり運賃ではこちらの方が3割ほど高い。長距離逓減制なのか、それともボスニアよりクロアチアの鉄道運賃が安いのか、理由はわからない。

 窓口のおばさんも、ユーロで買おうとした時は、駄目なものは駄目と愛想なかったが、今度は親切で、指を3本出して、3番線の列車に乗れと、笑顔で教えてくれる。

 気ばかり焦っていたが、これらを終えて切符を手にするまで、10分はかからなかったのだろう。1番ホームにはまだ乗ってきたサラエヴォ行きが停車していた。これが15時23分発で、バニャ・ルカ行きが15時25分発、そして私の乗るトゥズラ行きが15時28分発と、3方向への列車がほぼ同時に出て賑わう午後のひとときである。だが、どの列車も乗客は少ないようである。

 2番ホームの端から眺めるサラエヴォ行き  2番線のバニャ・ルカ行きは古風な2輌の客車列車

 2〜3番線のホームに行く。乗る気動車は丸っこい形状で赤白ツートンカラーの小型2輌編成で、車内も空いていて、乗るのが楽しみである。2番線の客車列車も興味深い。ザグレブから乗ってきたのが、いかにも長距離用の汽車だったのに対して、こちらはまさに鈍行用客車という感じで、それが僅かな客を乗せて発車を待っている。日本のかつての旧型客車を思い起こさせるような、タイムスリップした光景が、ここでは現役である。

 3番線に停車中のトゥズラ行き気動車  トゥズラ行き発車前のひととき

 ドボイ15時28分発トゥズラ行き2輌の気動車列車は、ボックス席がさらりと埋まる程度の乗車率で定刻に発車した。この支線は5往復が運転されているが、うち3往復までは途中28キロ地点のペトロヴォ・ノヴォ(Petrovo Novo)までしか行かず、その先トゥズラまでは2往復しかない。今はその午後の1往復の往路に乗っている。トゥズラ行き最終ということになるが、乗り遅れてもバスがあって、トゥズラまで今日中に行けるらしい。

 トゥズラまでは60キロで、全て各駅停車で途中18の駅に停まり、所要時間は92分である。よって平均駅間距離は3.16キロ、表定速度39.1キロという、日本にもありそうなローカル線である。比較として出すと、ドボイまで乗ってきた本線の方は、ボスニア国内区間(ヴォリニャ〜ドボイ)だけで言うと、通過駅も数えれば平均駅間距離は4.61キロで、表定速度は乗ってきた列車の場合で65.1キロである。鈍行だと、例えばバニャ・ルカとドボイの間110キロを4往復走っている普通列車だと、最速列車の表定速度が52.8キロ、一番遅い列車で46.8キロである。こちらディーゼルカーのローカル盲腸線の方が、電機牽引の客車列車より遅いことになる。

 ドボイを出てほどなく、この路線は「スルプスカ共和国」から「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」へ入り、以後、終点トゥズラまで、後者の地域を行くことになる。この複雑な地域区分については後述するが、もとより列車に乗っているだけでは、そんな変化は何もわからない。

 ドボイ郊外の車窓風景

 一応ドボイの近郊鉄道と言っていいのか、ちょこちょこと小さな駅に停まるごとに、少しずつ客が降り、段々と空いてくる。若い人が結構多いので、大学生の通学利用なのだろうか。大学の帰宅時間としては少し早い気がするが、この列車を逃がすと次は19時30分の最終までない。

 女の子が一人だけ降りたカルノヴァツ・ノヴィ  下車客の多いペトロヴォ

 途中駅からの乗車も若干あったが、下車が断然多く、ペトロヴォ(Petrovo)まで来るとガラガラになった。ペトロヴォが実質的な町の中心駅らしく、その次のペトロヴォ・ノヴォは、折り返し設備のある運転上の主要駅ではあっても、乗降客は少なかった。駅舎のある側が閑散としているのに対して、反対側には近代的な工場のような建物があった。

 ペトロヴォ・ノヴォ駅  工業地帯にあるルカヴァツ

 ペトロヴォ・ノヴォから、一日2往復だけの区間となり、この列車が終列車となる。といっても風景がますます田舎になるわけではないし、そもそも終着トゥズラはこのあたりで最大の都市である。この鉄道は主に貨物のために残っているようで、これまでの農村地帯からむしろ産業地帯へと入っていく感じになる。ルカヴァツ(Lukavac)という駅は背後が大工場で、構内も広い側線があり、貨車が停留していた。

 ルカヴァツ・テレトゥナ駅  終着の一つ手前クレカ駅

 終着の2つ手前にボサンスカ・ポリヤナ(Bosanska Poljana)という駅がある。ここも構内の広い駅で、進行左手に、ブルチコ(Brčko)方面への路線が分岐している。今は旅客列車はないが、線路は錆びていない。貨物だけ走っているのだろうか。その次のクレカ(Kreka)も構内の広い駅で、そのあたりから住宅が増えてきた。中層のアパートもある。


トゥズラ Tuzla


 そして終着トゥズラには、3分ほど遅れて着いた。予想通り、かなり古びた駅であった。


 今日、一日2往復だけの発着だが、ローカル盲腸線の終着駅という以上の風格はあり、側線も何本もある。今は工事用車ぐらいしか停まっていないが、かつては貨物の扱いもあったと思われる。ホームも2面あって、地下道で結ばれているものの、駅舎に接したホームしか使われていないのは明らかであった。

 駅の先から見たトゥズラ駅(翌日撮影)  17時09分発ドボイ行きとして出て行く列車

 乗ってきた列車は17時09発のドボイ行きとして折り返す。主要都市トゥズラから近郊へ帰る便利な時間帯の列車なので、ある程度は乗客がいたが、盛況とは程遠い。この国はまだ車を持てない人も多いのではと思うが、それでも一日2往復という本数を使いこなしている地元の人がどれだけいるのだろう。朝の列車は9時ちょうど着なので、通勤で毎日使う人も多少はいるのだろうか。

 トゥズラの駅舎内  トゥズラ駅外観

 駅舎は相当古びている。快適さとかおしゃれとか、そういった事には及ばないものの、切符が買えて座れて雨風がしのげる場所、そして鉄道職員が働ける環境、といったものは維持されている。どこの国にもそういう駅は沢山あるので、それ自体は特筆すべきではない。

 侘しすぎる駅の発車時刻表

 駅のすぐ横がバスターミナルである。そちらも盛況というほどではないが、行先は色々とあるようで、鉄道よりははるかに多くの人に利用されているのは間違いない。

 トゥズラ駅前のバスターミナル  トゥズラ駅ホームからの風景

 駅と市街地は2キロ近く離れている。私は市街地のホテルを予約してあるので、駅が町外れなのもわかっていた。ゆえにここも、場末感の濃く漂う駅前風景である。だがホームから見れば、線路の反対側には高層住宅が林立しているので、かなりの人が住んでいるエリアであることがわかる。トゥズラは都市圏人口12万、サラエヴォ、バニャ・ルカに次ぐこの国第三の主要都市である。これだけの人口がありながら、盲腸ローカル線の終着駅で、列車の発着が一日2往復だけなのだ。

 中心部にも荒れ果てた通りが少なくない  新しい墓石が目立つ

 トゥズラの中心部も、おおかたは古びていた。ただ一部にモダンでおしゃれな新しい商店や飲食店がある。経済的な問題もあり、復興のスピードはかなり遅いと思われるが、戦争の直接の痕跡はほとんどなかった。しかし慰霊碑などは何ヶ所かあり、新しい花輪が捧げられているなど、まだ戦争の記憶が生々しいことを感じさせる光景がある。山の中腹の墓地も、墓石が多く、そのかなりが新しいものではないかと思われた。それでも土曜の晩であり、中心部はパーティーにでも向かうのか、若い男女グループが着飾って歩いている姿もあり、見た目には西側の若者と何ら変わりない。飲食店にもパラパラとお客は入っていて、2ヶ月前に見たギリシャの地方都市に比べれば明るさと活気も感じられた。著名な名所旧跡があるわけではないが、表面的な印象では、何とも穏やかで静かで平和な街であった。実はトゥズラには空港があり、ボチボチと格安航空会社の乗り入れも始まっている。近い将来、欧州各地からだとボスニアで一番訪れやすい街になるのかもしれない。

 小綺麗な一角もパラパラ見られる  たそがれ時のトゥズラ中心部

 泊まった小さなホテルのフロントは若い男性で、物静かでフレンドリーな好青年であった。英語も流暢である。明日の列車とバスのことを聞いてみると、各地へのバスの時刻は手元にメモがあったのに、2本しかない列車の時刻がわからない。列車を使う人はほとんどいないし、自分も乗らないから良くわからない、とのことであった。


ボスニア・ヘルツェゴヴィナと鉄道
Bosnia Herzegovina and Railway


 翌日は、トゥズラを朝10時20分発の列車でドボイへ戻った。2往復という劇的に少なく不便な本数でありながら、トゥズラに1泊して、多少は街歩きをする時間も取れるという、いい時間帯の運転である。そのことが今回のこの旅程を決める決定打となった。やはりトゥズラ寄りは客が少なく、5往復区間に入ると小駅でも乗降客が増え、ある程度の利用者が見られた。

 ドボイは鉄道の要衝である  ドボイ駅と市街地とを隔てるボスナ川

 そして、往路は街に出る時間がなかったドボイも、ゆっくりと歩いてみた。閑散とした駅前から、ボスナ川の橋を渡り、10分ほどで市街地に入る。ドボイの人口は8万弱で、国内8位となる。古代からの長い歴史を有する都市ではあるが、市街地を見下ろす13世紀の小さな城砦が一つある程度で、格別の見所もない平凡なマーケットタウンであった。

 トゥズラも同様だったが、ドボイも市街地に入れば銀行がいくつもあり、ATMもあって、クレジットカード等でボスニア・マルクを引き出すこともできる。鉄道駅がどこも市街地と離れ、鉄道の利用者も少ないことから、駅にはATMもなく、昔ならあったかもしれない両替窓口もない。海外からいきなり着く旅行者のことなど、もはや考えていないということだろうか。ユーロ導入以前の西欧では、鉄道の主要駅には大概、係員のいる両替所があった。

 ドボイの市街地  市街地外れの城付近から見るドボイ

 そしてドボイから同じルートを戻り、前日の姉妹列車のザグレブ行きに乗る。やはり空いていたが、それでも昨日より若干利用者が多く、私のコンパートメントには青年が一人同室となった。

 天気も昨日と似たようなどんよりの曇り空で、変わり映えのしない平凡な景色を見ながら、またウクリナで反対列車と交換する。そしてバニャ・ルカで下車した。その後はバスでクロアチアへと移動したのだが、バニャ・ルカの街も1時間ほど歩き回ってみた。

 バニャ・ルカに到着  バニャ・ルカ駅に停車中のザグレブ行き

 バニャ・ルカは、スルプスカ共和国の事実上の「首都」だそうだ。スルプスカ共和国といっても独立国ではなく、国としてのボスニアの一部地域である。いずれにしても、このエリアでは主要な街であり、実際、トゥズラやドボイより垢抜けた部分も感じたが、正直、あまり面白くなかった。もっとも十分な時間がなく、絵になるような街並みにたどりつけずに終わったからだとは思う。

 一見近代都市風のバニャ・ルカ  公園でチェスに興じる中年男性

 というわけで、初めてのボスニア訪問も、汽車旅自体はのんびりすぎるぐらい長閑ではあったが、訪問としては駆け足であった。しかも国の南半分の、首都サラエヴォや、南部のヘルツェゴヴィナへは行けなかった。これらへもいずれ行ってみたい。

 それでも初めての国を一度でも行ってみるのとそうでないのとでは大違いで、複雑な国情の一端が少しだけ理解できた。本章では、冒頭に国やその鉄道の紹介をせず、最後に持ってきたわけだが、それは、そうしないと、ごく一部の詳しい方を別にすれば、理解が難しいと思うからで、旅行記をざっと読んだ後の方が、まだいくらかわかっていただけるのではと思う。

 独立国家としてのボスニア・ヘルツェゴヴィナ(本章でもっぱら「ボスニア」と記載)は、共和国であり、バルカン半島の旧ユーゴスラヴィアから、分裂してばらばらに独立したうちの一つである。引き算で言うと、ユーゴスラヴィアから、スロヴェニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、そしてコソボを取った残りである。

 次の地図を見ていただきたい。なお、鉄道路線は今回乗った区間のみ記入してある。


 先にヘルツェゴヴィナについて述べると、ヘルツェゴヴィナという地域は、国のうちの南の一部だけで、面積も小さい。今回の私もヘルツェゴヴィナへは足を踏み入れていない。最大の都市はモスタル(Mostar)。観光都市でもあり、見所も多い。

 ユーゴスラヴィアが国家分裂したけれども、ボスニアとヘルツェゴビナは一つの国としてまとまった。他方で、この一つの国の中にまた「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」と、それ以外の部分とがある。これは紛らわしい。「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」は、上の地図の黄緑色のところである。連邦ではあるが、独立国家ではなく、国家としての「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ」の約半分である。

 残りの約半分は、これも独立国家ではない「スルプスカ共和国」で、今回の旅はここから入ったし、長距離列車は全区間がこのエリアであった。上の地図の桃色に塗った部分である。こういった自治区は、複雑に民族が混じりあった地域での独立戦争を終結させるにあたって生じた産物と言える。

 地図でお分かりの通り、かなり入り乱れている。「スルプスカ共和国」は2つに分断されているし、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」には北のクロアチア国境に小さな飛び地が2つある。そして、そのスルプスカ共和国が分かれてしまっている中間が、「ブルチコ行政区(Brčko Distrikt)」で、ここはどちらにも属さない独立した自治区なのである。

 何がどうなってこのようになってしまったのか、ごく大雑把に言うと、スルプスカ共和国は、セルビア人・セルビア語がマジョリティーなエリアであり、セルビア同様、宗教もギリシャ正教である。それに対して「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」は、クロアチア人・クロアチア語・カトリックと、ボシュニャク人・ボシュニャク語・イスラム教がマジョリティーなエリアである。ボシュニャクというのは、ボスニアと似ていて、実際関連ある言葉だが、ボスニア人と言ってしまうと、国家としてのボスニア全体を指し、スルプスカの地域も含まれてしまうので、今はこういう現地音での記載で区別するのが一般的らしい。

 そして、ブルチコ行政区は、そういう2地域の言語・人種・宗教の構成が五分五分に交じり合っていて、どちらに属するかの決着がつかず、最後までもめた挙句、独立した自治区となってしまったそうだ。

 例えばクロアチアは、クロアチア人・クロアチア語・カトリック、という共通項である程度くくれたため、ボスニアよりはまだいくらかスムーズに独立できた。ボスニアはそれが大いに違ったので、それが大きな内乱を生み、多大な犠牲を出してしまった、と、大雑把な見方ではそう言えるであろう。

 以上にしても、大雑把な括りに過ぎず、実際には微妙な地域も多いし、例えばクロアチア人でもセルビア語話者もいるし、ボシュニャク人でもカトリックがいるなど、複雑に混じり合っている。それが特に拮抗していたのがボスニアであり、だからこそ紛争も泥沼に陥ってしまったのかと思う。また、内戦の前後で人種比率が大きく変わった所も多い。今はスルプスカに属するドボイなどまさに好例で、今はセルビア人が全人口の4分の3を占めるが、内戦前はボシュニャク人が4割いて一番多く、セルビア人は3割に過ぎなかった。

 ボスニア紛争と言っても具体的なことを読んだり調べたりまではしていなかった私が、今回、訪問してやっと何となく、ここまでわかったという、まだまだ初歩的知識ではある。ちゃんと学んだ人や学者が読めば苦笑するレベルかもしれないが、まあいいだろう。そして締めくくりは「鉄道」である。

 「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」と「スルプスカ共和国」とでは、鉄道運営も別会社なのである。どちらも国営というか、公営であり、それぞれの連邦政府、共和国政府が運営する企業体である。これも今回、下調べをするに際して最初は少し困ったことであった。もっともどちらのウェブサイトも、列車時刻表はなく、駅名を入れて駅の時刻表を調べるところまでしか検索できなかった。一方は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦鉄道(Željeznice Fedracije Bosne i Hercegovine)、略称ŽFBH、ウェブは www.zfbh.ba で、こちらは英語もある。他方はスルプスカ共和国鉄道(Željeznice Republike Srpske)、略称がŽRS、ウェブは www.zrs-rs.com で、こちらは英語すらなく、ブラウザの翻訳機能を使って英語に訳しながら、やっとこさ欲しい情報を探し当てた。

 今回乗車した、クロアチア国境からドボイまでは、ŽRSである。ドボイの駅と街はスルプスカに属するが、連邦との境界が近い。トゥズラへの路線は、ドボイを出ると、最初の駅までの間に連邦へと入ってしまい、あとは終着トゥズラまで連邦を走るので、この路線はŽFBHの運営である。このように分かれている上、列車単位の時刻表がないため、鉄道旅行のプランを立てるのは駅ごとに検索して出てくる時刻表だけが頼りであるが、これには注意を要する。ザグレブ〜サラエヴォの国際列車の停車駅の時刻検索なら、どちらの会社のサイトでもできる。しかし例えばトゥズラへの途中の小駅の時刻となると、ŽRSの方には出てこない。スルプスカ内の国際列車停車駅である、例えばノヴィ・グラードやバニャ・ルカなどの主要駅は、ŽFBHのサイトでも駅名が出てきて検索できるが、列車の時刻が出てくるのは、ザグレブ〜サラエヴォの1往復の国際列車だけで、スルプスカ内だけを走る普通列車は出てこない。私は最初、ŽFBHのサイトの時刻表機能を見つけて、これでボスニア全国の鉄道時刻がわかるのではないかと思い、ノヴィ・グラードなどは1日1往復しか列車がないのか、と勘違いしそうになった。

 ドボイは昔からの鉄道の要衝だが、今はそれに加え、ここが連邦とスルプスカとの境界駅の役割も果たしている。興味深いことに、ドボイから南へ、サラエヴォ方面へ向かうと、次は23キロも先のマグライ(Maglaj)まで、途中駅はない。かつてはあったが、全て休止ないし廃止になっている。私の予想だが、そうなっている理由は、それらの駅がスルプスカに属するけれど、ドボイ以南はŽFBHの鉄道が運営しているためではないかと思う。ドボイ〜マグライ間は、ザグレブ〜サラエヴォと、ドボイ〜サラエヴォの2往復の急行列車しかないのに対して、マグライ以南はそれらに加えてマグライ始発の各駅停車が3往復、走っているのである。

 ちなみにブルチコであるが、ここは、トゥズラから線路が通じている。ブルチコを経てクロアチアに入り、クロアチアのヴィンコヴチ(Vinkovci)まで、昔からローカル線が存在しているのだが、現在この路線はクロアチアの国内区間しか旅客列車は走っていない。ボスニア側はブルチコを含めて乗れないのである。旅の計画を始めた時は、まだブルチコ問題など無知な状態だったが、それでも路線図を見て、トゥズラからこの路線でクロアチアへ戻るというのは、理想的な回遊ルートに思われたので、本当に列車が全く走っていないのかどうか、色々調べたのである。

 かように内戦後の複雑な事情が鉄道運営にも反映されていて、まだそれ以前の水準に戻っていないのが、今の鉄道の現状である。これが半世紀ぐらい前であれば、きっと今頃あちこちで鉄道復旧工事や路線強化などが行われていたのではないだろうか。しかし今は時代が違う。もとより復興の予算も限られているだろう。その中で、今さら鉄道を旅客輸送のために頑張って復旧強化させても仕方ないと割り切っているように思われる。鉄道は貨物にはまだ必要であろうが、旅客輸送は既にすっかりバスが席捲していて、利用者も多く、利便性が高い。


 帰ってから昔の時刻表を調べてみた。上はユーゴスラヴィアだった最後の頃の1991年秋のものである。今は1往復しか走っていない国境越え区間も、当時は国内区間であり、ザグレブ〜サラエヴォの直行列車は昼行5往復、夜行2往復の計7往復もある。そして驚いたことに、今回乗った列車に相当する朝の列車が、ザグレブ〜サラエヴォ間を7時間12分で走破しているのである。今は9時間24分。2駅の国境審査の停車時分55分を差し引いてもなお、今の方が1時間以上、余分にかかっている。まだ戦争で破壊された後遺症などで徐行区間等があるせいだとすれば気の毒ではあるが、果たしてそれが原因なのだろうか。そして翌1992年夏の時刻表を見ると、全面運休になってしまったのか、情報が入手できなかったのか、真っ白で、時刻は全く書かれていない。日本は第二次大戦終戦の日でも、鉄道は時刻表通りに走っていたという、宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」の記述を思い出す。

 鉄道から見たこの国は、かような状況だが、今のボスニアは物価も安いし、治安も良い。気軽に汽車に乗りに行ける所とは言い難いが、のんびりと古きよき時代を偲んでの汽車旅に、大いにお勧めである。ただ、鉄道だけでスケジュールを組むのは難儀すると思うので、鉄道に乗るだけの人はともかく、観光や町歩きもするなら、バスと組み合わせてうまく回るのがいいだろう。



欧州ローカル列車の旅:ザグレブ〜トゥズラ *完* 訪問日:2016年3月12日(土)


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